町田市内を車で移動すると、よく利用する道路のひとつが「町田街道」です。
町田駅周辺から木曽、忠生、小山方面へと延びており、現在も市内の重要な幹線道路として利用されています。
では、この町田街道は最近になって重要になった道路なのでしょうか?
実は、現在の町田街道につながるルートは、幕末から明治期にかけて生糸を運ぶ重要な交通路として利用されてきた歴史があります。
今回は、町田街道を中心に、町田市がどのように「交通の街」として発展してきたのかをご紹介します。
町田は昔から「道が交わる場所」だった
現在の町田市には、歴史的に重要な街道がいくつも通っていました。
代表的なのが、
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鎌倉と武蔵国府方面を結んだ「鎌倉街道」
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江戸方面から大山へ向かう「大山街道」
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八王子方面と横浜港を結んだ「絹の道」
です。
町田市も、現在の町田街道を「絹の道」につながる歴史的な交通路として紹介しています。町田市公式ホームページ
現在でも町田市周辺には国道16号、国道246号、東名高速道路などがあり、多方面へ移動しやすい立地ですが、実はこうした「交通の要所」という特徴は昔から続いているともいえます。
町田街道と「絹の道」
幕末から明治時代、日本では生糸が重要な輸出品でした。
1859年に横浜港が開港すると、八王子や甲州方面で生産された生糸を横浜港まで運ぶ必要がありました。
その際、八王子方面から原町田を経由して横浜へ向かうルートが重要になっていきます。
この道は後に「絹の道」と呼ばれ、多くの商人や物資が行き交いました。
町田市によると、当時の町田市域は生糸の生産地である八王子方面と横浜を結ぶ中継地点となり、養蚕も盛んだったとされています。町田市公式ホームページ
つまり町田は、単なる通過地点ではなく、
「人や物が集まる中継地点」
として発展していったのです。
原町田が商業の街になった理由
現在の町田駅周辺といえば、百貨店や商業施設、飲食店などが集まる大きな商業エリアです。
この「商業の街・町田」の原点も、街道と深く関係しています。
江戸時代後期の原町田では「市」が開かれていました。
特に「二の市」「六の市」と呼ばれる市が開かれ、周辺地域から人や商品が集まるようになります。
明治期になると、絹の道を利用する商人なども増え、原町田周辺はさらににぎわうようになりました。
町田市は、この頃の市場や街道沿いの発展が、現在の町田駅周辺の商業集積につながったと説明しています。町田市公式ホームページ
今の町田駅周辺が「買い物の街」として発展しているのも、突然そうなったわけではありません。
昔から人が集まり、物を売買する場所だったという歴史があるのです。
道は「物」だけでなく「情報」も運んだ
街道を行き交っていたのは、生糸や商品だけではありません。
人が移動すれば、新しい情報や文化も一緒に入ってきます。
町田市域では、明治時代に自由民権運動が盛んになりました。
横浜に近く、絹の道を通して多くの人や文物が集まる地域だったことから、西洋の新しい思想や情報に触れる機会も多かったとされています。町田市公式ホームページ
街道は単なる物流ルートではなく、
文化や思想を運ぶネットワーク
でもあったわけです。
鉄道が開通すると町田はさらに発展
街道によって発展してきた町田ですが、その後、交通の中心は徐々に鉄道へと移っていきます。
現在のJR横浜線は1908年に開業し、小田急線も1927年に開通しました。
※町田市の一部資料では横浜線について異なる年の記載が見られますが、市のまちづくり資料では1908年開通とされています。町田市公式ホームページ
横浜方面と八王子方面を結ぶ横浜線。
そして新宿方面へつながる小田急線。
この2路線が交わることで、町田は道路だけでなく鉄道でも重要な交通拠点になりました。
現在、町田駅が多くの人に利用される大きな駅になった背景には、こうした交通網の発達があります。
戦後は「住宅都市」として急成長
戦後になると、町田市はさらに大きく変化します。
1958年には、
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町田町
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鶴川村
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忠生村
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堺村
が合併し、町田市が誕生しました。
その後、1960年代から1970年代にかけて大規模な住宅開発が進みます。
山崎団地や木曽団地などの大規模団地が整備され、東京・横浜方面へ通勤する人たちの住宅地として人口が急増しました。
さらに東急田園都市線や東名高速道路などの整備も進み、町田は首都圏の住宅都市として発展していきます。町田市公式ホームページ
現在の町田街道も重要な幹線道路
現在の町田街道は、町田駅周辺から市内西部へ延びる重要な幹線道路です。
沿道には、
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飲食店
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スーパー
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ホームセンター
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自動車関連店舗
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住宅地